コンプライアンス(法令遵守)から世界を見る
コンプライアンスという言葉は、社会人なら一度は耳にしたことがあるであろう。企業は、法令を遵守しているか否かによってその良し悪しが評価される。それゆえまともな企業なら経営方針の立案のみならず社員教育にいたるまで、コンプライアンスを徹底する。それこそ裁判沙汰という最悪のケースに直面したとしたら、企業にとっては死刑宣告を受けたことと同様である。
法令のみならずあらゆるスタンダードは、企業にとっては武器にもなれば搦め手にもなる。たとえばある商品が国際基準を満たしているとすれば、その商品の宣伝文句にもなるであろう(余談だが、これにより、例えばWTOにおけるエコラベル問題のような新たな問題も浮上するが、ここでは触れない)。その国際基準が具体的にどうであるかという事はさほど問題にはされない。要するにイメージである。イメージの良し悪し=企業の良し悪しと言ってもいいだろう。
ところで、国内においてはこのコンプライアンスは正常に機能しうる。裁判沙汰という最悪のケースが起こり、裁判所の召喚があれば、それに従わねばならないし、従わねば新たな問題が生じることは容易に想像できよう。
しかし、国際法においては、なかなかこれが機能しない。企業活動に限らず、国際的アクターが意識しやすいのは国際法よりも、その国の国内法ではなかろうか。日本の企業が米国に展開しており、その企業内において、例えばセクハラがあったと仮定されたい。ここで最初に国際司法裁判所を意識する者はまずいない。米国の関連国内法を意識し、裁判所の決定を意識する。敗色濃厚になれば、莫大な賠償金の額を意識することだろう。
企業ではなく、国家活動を律する国際法の場合はどうか。ウェストファリア体制、すなわち国家主権の尊重という原則があるので、国家はある程度無視できる。国際司法裁判所にも即時の脱退権がある。国内における裁判に該当するものがなかなか見当たらない以上、国際法を無視した場合、最悪の場合があるとすれば、それは武力の行使であろう。
ジョセフ・ナイ教授の「ソフトパワー」論は、国際社会におけるソフトパワーの重要性を説いている。命令や武力などの強制力、すなわちハードパワーに対比し、その国が持つ文化的魅力、正統性などにより、周りの国が自発的に従うようにするパワーのことである。コンプライアンスも、その中に含まれる。
国内法においても同様であろう。国内企業は法令を遵守することによって、ユーザーからの信頼を得る。これがやがてその企業の商品、サービスなどの購買意識を刺激する。すなわち企業がユーザーに対してソフトパワーを持ったということになる。
ただし、国際社会においては、その法令が果たして本当に正しいかということにまで意識を向けなければならない。私はよく所有権概念を例にあげる。個人の所有を重んじる社会ルールと共有を重んじるルールとの対立があった場合、果たしてどちらが正しいか。場が変われば法も変わるのである。世界共通のルールを謳ったところで、そこには法令と社会との乖離があるのである。国内社会においても、法令と社会との乖離の例があるにはあるが、国際社会においてはその比ではない。しかも、それを律する機関の持つ力も危うい。(コンプライアンスによる)ソフトパワーも、ナイ教授が指摘したように、その効果は抽象的かつ曖昧だ。
今日の日本においては、コンプライアンスの発想がまるでない、いわゆるブラック企業が蔓延している。国際社会はそれ以上に混沌としているのである。私如き若輩がこのようなことを言うのは何だが、国際法の限界は、この点においても論じることができるのではないだろうか。
法令のみならずあらゆるスタンダードは、企業にとっては武器にもなれば搦め手にもなる。たとえばある商品が国際基準を満たしているとすれば、その商品の宣伝文句にもなるであろう(余談だが、これにより、例えばWTOにおけるエコラベル問題のような新たな問題も浮上するが、ここでは触れない)。その国際基準が具体的にどうであるかという事はさほど問題にはされない。要するにイメージである。イメージの良し悪し=企業の良し悪しと言ってもいいだろう。
ところで、国内においてはこのコンプライアンスは正常に機能しうる。裁判沙汰という最悪のケースが起こり、裁判所の召喚があれば、それに従わねばならないし、従わねば新たな問題が生じることは容易に想像できよう。
しかし、国際法においては、なかなかこれが機能しない。企業活動に限らず、国際的アクターが意識しやすいのは国際法よりも、その国の国内法ではなかろうか。日本の企業が米国に展開しており、その企業内において、例えばセクハラがあったと仮定されたい。ここで最初に国際司法裁判所を意識する者はまずいない。米国の関連国内法を意識し、裁判所の決定を意識する。敗色濃厚になれば、莫大な賠償金の額を意識することだろう。
企業ではなく、国家活動を律する国際法の場合はどうか。ウェストファリア体制、すなわち国家主権の尊重という原則があるので、国家はある程度無視できる。国際司法裁判所にも即時の脱退権がある。国内における裁判に該当するものがなかなか見当たらない以上、国際法を無視した場合、最悪の場合があるとすれば、それは武力の行使であろう。
ジョセフ・ナイ教授の「ソフトパワー」論は、国際社会におけるソフトパワーの重要性を説いている。命令や武力などの強制力、すなわちハードパワーに対比し、その国が持つ文化的魅力、正統性などにより、周りの国が自発的に従うようにするパワーのことである。コンプライアンスも、その中に含まれる。
国内法においても同様であろう。国内企業は法令を遵守することによって、ユーザーからの信頼を得る。これがやがてその企業の商品、サービスなどの購買意識を刺激する。すなわち企業がユーザーに対してソフトパワーを持ったということになる。
ただし、国際社会においては、その法令が果たして本当に正しいかということにまで意識を向けなければならない。私はよく所有権概念を例にあげる。個人の所有を重んじる社会ルールと共有を重んじるルールとの対立があった場合、果たしてどちらが正しいか。場が変われば法も変わるのである。世界共通のルールを謳ったところで、そこには法令と社会との乖離があるのである。国内社会においても、法令と社会との乖離の例があるにはあるが、国際社会においてはその比ではない。しかも、それを律する機関の持つ力も危うい。(コンプライアンスによる)ソフトパワーも、ナイ教授が指摘したように、その効果は抽象的かつ曖昧だ。
今日の日本においては、コンプライアンスの発想がまるでない、いわゆるブラック企業が蔓延している。国際社会はそれ以上に混沌としているのである。私如き若輩がこのようなことを言うのは何だが、国際法の限界は、この点においても論じることができるのではないだろうか。
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